最近、ものごとを深く考えようとする時、キーワードとなる熟語の語源にあたるという事をよくやります。
というのも、例えば一見古来から存在するような「哲学」「意識」「技術」「定義」「理性」といった言葉は西周、「自由」「家庭」「演説」「競争」などは福沢諭吉が、明治時代に外国語からの訳として作り出した語です。
これらが無い時に、各々の概念(←これも西周が作った(笑))をどう表現していたのか、本当に当てはまる感覚や仕組みなどは存在しなかったのか?それらを考えると、言葉を咀嚼して実際の行動へと落とし込む大きなヒントになる事が度々あります。
で、今日はよしりん先生のブログにもあった通り「次」へのアイデアを導く軸となる「エンタメ」について考えてまして、一般的な訳語である「娯楽」も近代の造語なんじゃ?と思って調べたんです。
そしたら「娯楽」は、法華経の中の「自ら娯楽して、無量の安穏快楽(あんのんけらく)を得べし」が元になっている仏教由来の言葉でした。
「自ら娯楽して快楽…」という所で間違って(?)男子中学生とか想像しちゃうと、色々コメントしにくいものに行き着きますが(ゴホンッ)、本当は歌舞音曲により心のやすらぎや高まりを得た状態で、快楽を伴って経の教えの真髄にせまれる、といった意味のようです(大須賀解釈を複数含む)。
そうすると、言論と思想の場である公論イベントおよびその周辺の活動を、より「エンタメ化」する事は、変化球や奇手ではなく、むしろ堂々たる「王道」なのでは、という気にさえなってきます。
日本のメイン中のメイン中のメインである皇統問題の停滞を打破できるのは、「エンタメでもできるか」じゃなく、もはやエンタメしか手段が無いのかもしれません。
これから一週間、たぶん寝ても冷めてもこの続きと、さらに具体的なネタを考えて、挙動不審になっていると思います(笑)